関心の変化2014年07月29日 01:01

心理臨床に関することを書こうと思い、始めたこのブログなのですが、ここしばらく更新せずにおりました。
今回、書いてみようと思う事柄がありまして、ひさしぶりに記事をアップするべく、キーボードを叩いています。

自分は、自身がゲイの当事者であることもあり、20代の頃から二十数年間、心理臨床の中でも、セクシュアル・マイノリティへの心理支援に主に興味をもって関わってきました。
また、自分は、「夢」をもともとよくみるほうなので、心理臨床の中でも、夢分析というアプローチを主な手法とする「ユング心理学」に親和性を持って、学んできました。

「セクシュアル・マイノリティ」に関しては、自分は、いわゆる「二重生活」を送るのは自分の性に合わないので、2008年にNHK教育の「ハートをつなごう」という番組へ出演するときに、ゲイであることを隠さずにカミングアウトすることにしてから、基本、ゲイであることを隠さずに(かといって宣伝するわけでもないですが)、心理カウンセラーとしての仕事もするようにしています。

ゲイであることについてはけっこうカミングアウトするようになっている自分なのですが、ここ1~2年の間、別の事柄について「セカンド・カミングアウト」をしようかどうしようかと考えてきています。
「ある部分を隠して二重生活をする」羽目になるのは(ゲイであることを隠すのをやめた自分なので)好きではないので(笑)、今回もカミングアウトをしようと思います。
今回、このブログに記事をひさしぶりに書いている理由は、その、セカンド・カミングアウトをしようと思っているためです。

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 これから書くことは、世間一般的には、「ああ、あいつもとうとうイカれてしまったか」とか、「ヤバくなってる」「あぶなくなってる」とか、さらには、「発病してしまったか」などと言われ得るような内容だと思います。

 どんな事柄を書こうとしているかの一端(さわりの部分)を、先に書いてしまおうと思います。

 上に書いたように、自分は、眠っているときに夢をよくみるほうです。
 若い頃から、ものすごくリアルな(ヴィヴィッドで、起きたあとも強烈な体感が残っているような)夢をみることが時々あります。なので、同じように、強烈な夢をみた体験を書き残しているユングの自伝を(自分が20歳のときに)読んでから、自分は、ユング心理学に強く惹かれていきました。
 自分自身が、ユング心理学の分析家に「夢分析」をしてもらったり、自分自身、クライエントさんにみた夢を報告してもらって、それを心理臨床に活用したりしてきました。

 自分が夢をみていて(あるいは、クライエントさんからみた夢の報告をきいていても)、時々、その夢の内容は、夢をみた本人(個人)を超えたところから来ている、と思えてしまうことがあります。
 例えば、自分は、若いころ、本当に死ぬほど悩んでいたことがあったのですが、そのときに、
「自分の身体が二つに引き裂かれて(そのあとまたくっついて)新たに生まれ変わる」
という(実際に、引き裂かれる体感を伴った、「衝撃的」とも言える)夢をみたことがあります(それは、ユング心理学を知る前の話です)。

 自分は、そういう、すごく「強烈」な夢をみることが時々あります。
 昔の人々は、そういう(強烈な)夢をみたときに、「神からの啓示をうけた」みたいに、言っていたのだろうな、と思います。(アブナイかんじがするセリフでしょうか?(笑))。

 ユング心理学では自明のことなのですが(しかし、すでにここの時点で、世間的には「ちょっとイカれている」領域に入り込んでしまうと思いますが)、実際、ユング心理学では、夢は、その本人(個人)を超えた「集合的 collective」(人類全体の集合的無意識)なところから、やって来ることもある、ということが言われます。

 夢分析をやっていると、「偶然の一致 シンクロニシティ」と言われるようなことも時々、経験します。
 (このあたりから、徐々に「セカンド・カミングアウト」に入っていきます(笑))。
 例えば、夢の中で、「約束の時間に遅刻する!」と思って時計をみて目が覚めると、起きたときの時刻が、夢の中でみた時刻と同じ時刻だった、ということがありました(実際、その時刻に目覚めたおかげで、遅刻せずに済んだのですが)。
 また、自分は何度か、自分の知っている人が亡くなったときに、その人が出てくる夢をみるという体験をしています。
 亡くなった知り合いが、とてリアルに話しかけてくるという夢をみたりもします。

 ユング心理学では、夢も、ひとつの「リアリティ」だという捉え方をします。(「心的現実」という言葉を使います。)

 一度、亡くなった自分の友人が「夢」の中に出てきて、「今、自分は幸せに生活している」という話を語ってくれたことがあります。とてもリアルな夢でした。自分は彼がそう語ってくれたことを、とても嬉しく感じて、(夢をみている最中もですが)起きたあとも、涙を流していました。とてもリアルな「心的現実」でした。自分の心(感情)に、とても深く深くはたらきかけられた夢でした。自分の感じた感情はリアルだったわけです。

 さて、ここで、ひとつ「カミングアウト」します。

 自分は、自分の夢の体験から、人間は、いわゆる「死」を迎えたあとも、その存在は「無」になるのではなく、なんらかの形で、存在し続けるのだと思うようになっています。(それが、自分の実感になっていっています。)
(夢でみる内容は、単に「自分の頭のなかでつくりあげた」以上のものである場合もある、と思うようになっています。)

 自分は、いわゆる「霊媒」ができるわけではないので、自由に「亡くなった人の魂?(霊?)」と話ができるわけでは勿論ないですが、しかし、自分が夢の中でときどきやりとりすることのある「亡くなった人」は、単に、自分が頭の中でつくりあげたもの(主観)ではなく、なんらかの「客観性」も持つものだろうと思うようになっています。

 さて、ここで、これを読んでいる方々に思い至っていただければと思うのですが、
 皆さんの持っているものの見方は、「中立」でしょうか? 
 それとも、なんらかの「先入観」に彩られているでしょうか?

→ある人が死んだら、その人の存在は「無」になる、という考え方は科学的に証明されている事柄でしょうか?

→逆に、ある人が死んだあとに、その人の存在が、なんらかのかたちで存在し続けるということは、「あり得ないこと」として、科学的にきっちりと「否定」されていることでしょうか?(あり得ないということが、ちゃんと科学的に証明されていることでしょうか?)

 皆さんのものの見方は、いわゆる「唯物論」と言われるような一つの特定の見方だけに、染まりすぎてはいないでしょうか?

 人間が死んだら「無」になるという考え方と、
 人間が死んだあとも、その存在はなんらかの形で存在し続けるという考え方の、
 どちらをも、五分五分にあり得ることだと(or 五分五分にあり得ないことだと)、見ていく見方が、本当に、「中立的な見方」ではないでしょうか?

現代の先進諸国の人々のものの見方が、「唯物論」という特定の見方に偏り過ぎていると、私は思っています。

「物質」と「それ以外」を分けて考える考え方は、近代以降の「西洋」(と言われるような世界)において生まれてきた「特定の考え方」で、現代の先進諸国という世界において、「主流」になっている考え方ではありますが、それだけが「唯一」の考え方ではないし、さらには、それが「いちばん進歩した考え方」でもない、
→と考えるのが、「中立的な考え方」だと私は思います。

というわけで、私は、いわゆる世間で「スピリチュアル」と呼ばれているものが(たしかに、「胡散臭い」ものも多々含まれてはいるのですが、それにしても)、偏見の目で見られすぎだと思うようになっています。
中には、「ちゃんとしたもの」もあると思うようになっています。

「霊媒」という現象も、(これまた、胡散臭いものも多々あり過ぎるほどありますが)、ちゃんとみていくと、中には、「これは、本物では??」と思えるものも含まれている、と思うようになっています。

そういう目で、いわゆる「スピリチュアル」という分野をみていくと、単に「これは、全部キワモノだ」と切り捨ててしまえない事柄が、少なからず含まれていると、自分は思うようになりました。

自分が、そういう方向に動いていっている理由は(そういう事柄に、より関心を抱くようになっている理由は)、単に自分の好奇心からではなく(好奇心もあることはありますが)、「スピリチュアル」と呼ばれているような事柄をちゃんとみていくと、その中には、明らかに自分がふだん行なっている臨床の仕事にとって、有用なものも多々多々含まれていると実感するようになったからです。

おそらく、(自分が「夢」というチャンネルで、そういうものに対する感性を持っているように)、生まれつき、そういう事柄に感性のある人々が何割か、人類の中に生まれてくるのだろうと思います(そういう人々の中で、いわゆる「霊媒師」と呼ばれるようなものになる人もいるのだろうと思います)。


次回は、「スピリチュアル」と呼ばれるものの中の、もうちょっと別の事柄について、書こうかと思います。

とりあえず、今回は、このへんで。


このようなことを書くと、
「あいつはおかしなことを考えるようになった」
「ヘンになっていっている」
と思う人がいても、(現代の「常識」からすると)それもまあ仕方がないことだろうなと思います(笑)。

伝わる人に伝わればいいと思って、今回の記事を書くことにしている次第です。