つい言ってしまいそうになるのです2023年07月10日 11:11

今回の記事は
9年前に書いた記事の
続きになるような記事です。

→「関心の変化」
 http://thotho.asablo.jp/blog/2014/07/29/7400778

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ここ数年、集合意識の「パラダイム」がシフトしていっているように
自分は感じています。

自分が、いわゆる「スピリチュアル」なことに関心を持っている心理カウンセラーであるということで
新しいパラダイムに馴染んでいるクライエントさんも、
カウンセリングにやって来るようになっています。

そのようなクライエントさんとは、
新しいパラダイム(新しい世界観)が共有されている前提で、
カウンセリングを行ないます(そういう前提で、自分も話をします)。

その「前提」はどんなものなのかと言うと
(色々な言い方で言い表し得るのですが)
例えば、
「貴方は、今回の人生以外の人生も生きている。
(今回の人生だけが、貴方の生きている人生ではない)」
という前提です。
また、
「この物理的リアリティ以外の、非物理的リアリティも存在している」
という前提です。

もちろん、従来の古いパラダイムに馴染んでいるクライエントさんも来られているので、
その場合は、従来のパラダイムに合わせてカウンセリングを行なうのですが、
(自分自身がふだん、新しいパラダイムで物事を考えることが当たり前になってきているので)
年々、従来のパラダイムの枠内でカウンセリングを行なうことが、
自分にとって、
「自然なこと」ではなくなっているように、
しっくりこなくなっているように、
感じることが増えていっています。

次のようなことを、ついつい言ってしまいそうになるのです。
(このへん、敢えて、少し誇張して書いています。)

→<亡くなった猫ちゃんが、貴方のことを恨んでいるなんて、そんなこと、まず無いですよ。亡くなったあとの世界には、愛と感謝だけがあるのですから。貴方に対して「ありがとう」と感謝を伝えている猫ちゃんが、いま、すぐ目の前にいると思って、みてみてくださいな。その感謝の思いを感じてみてくださいな。(※こういうとき、自分は、「亡くなった猫」の魂(意識)が本当にそこにいると思ってしゃべっています。>

→<自分はどうしてこんなつらい目にあうんだろうとか、自分はなんて不運なんだろうと思うことがあるかもしれませんが、そのようなことも、貴方は、「生まれる前」に、魂のレベルで、この人生で体験することを決めてきているのですよ。それが、今生、貴方が学ぼうと思った事柄(テーマ)なのですよ。>

→<この世界は、一時期、舞台の上でお芝居を演じているようなもので、いまの貴方は、〇山〇子さんという役柄を演じている役者さんなのですよ。お芝居が終わって、舞台の幕が降りたら、貴方は(いまの役柄を降りて)素の自分に戻って、ああ、自分は、なんて面白いお芝居を演じていたんだろう、と思うのですよ。>

→<貴方が一人ぼっちだなんていうことは、あり得ないのですよ。どんな人にも、非物質領域の「ガイド」「ヘルパー」が複数名、付いているから。ただ、この地球の人間は、自らの知覚・自らの認識を極端に狭めることを(自分で自分に)課したので、自分が一人ぼっちだと思い込むことが可能になってしまっているのですよ。実際には、貴方のそばには、常に「ガイド」「ヘルパー」が付いているのですよ。>

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今回 このような記事を書いているのは
最近の自分が、以下のように感じているからです。

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カール・ロジャーズは
カウンセラー側が genuineness や authenticity をもって
クライエントさんと相対することが大切だと述べたわけですが、
今回、このようなブログ記事を自分が書いているのは、
自分が接する(可能性のある)人々に対して
できるだけ genuine であり authentic でありたい
という思いがあるから、です。

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親しい相手を亡くし悲しんでいる人に対して、
自分は、その「悲しみ」に共感しようとすることが難しくなってきていると感じてきています。
「悲しみ」に共感することが、本当にその人のためになるだろうか、とも感じるようになっています。
そして、そう感じてしまう自分を「矯正する」ことも、おそらく違うだろうと感じています。

→そう感じるようになってきている自分は、
心理カウンセラーを名乗って、通常の、心理カウンセリングをやっていっていいのだろうかとも自問するようになってきています。

→その問い対する一つの、あり得る答えは、
自分は、「普通の」「一般的な」カウンセラーではないということを
カウンセリングを受けに来る可能性のある人たちに明らかにしておく、
ということかもしれないと思い、この記事を書いています。

<物事の見方が(前提が)、一般的ではないカウンセラーですが、
それでもよいですか? よければ、どうぞいらしてください>
そのようなスタンスを明らかにしておく、というのが
ひとつのやり方かもしれないと思い、
今回の記事を書いています。

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いまひとつまとまっていない感じの記事ですが、
とりあえずこれでアップします。

「当事者性」2017年08月13日 12:36

『私はこうしてサバイバルした』という出版物が、出ました。

こころの科学増刊
『私はこうしてサバイバルした』
日本評論社
松本俊彦 斎藤環 井原裕 監修

友人の精神科医の林直樹さんが1章執筆しています。
(ちなみに、同名の精神科医が2名(以上)います。)

(私も「ゲイである」という「当事者性」を特に「隠す」ことなく仕事をしていますが)
林さんも、ご自身の担当している章で、当事者であることの意義について語っておられます。

メンタルヘルスの専門家は、
どこか、「当事者性」を持っているがために、
メンタルヘルス専門家という仕事を選んだという人が、少なくないと思います。

最近、「当事者性」をある程度オープンにしながら、仕事をしている精神科医に出会うことが(書物上で、ですが)以前よりも増えたように思います。

ご自身が発達障害であることをオープンにしながら仕事をしている精神科医の方々もおられるし、
ご自身が性被害の当事者であることを本の中で書いている精神科医の方もおられます。

メンタルヘルスの専門家が、当事者性をオープンにする場合、
自身の「当事者性」と、ある程度、すでに折り合いがついていることが必要とされますよね。

おそらく、
「当事者性」を「隠そう」という姿勢を持つよりも、
(そうすることが、自然だと思える場合には)自分の「当事者性」もオープンにしながら、仕事をしている精神科医のほうが、よい仕事ができるだろうなと(私は)思います。
そのほうが、より、therapeuticな姿勢のある精神科医になるだろうと思います。

精神科医や心理カウンセラーは、
診療やカウンセリングの場で、(自身に関係する情報を、患者やクライエントに(必要以上に)語らずに)「中立」であることが必要だ、と言われることがあります。
その観点を否定するつもりもありませんが、
自らの「当事者性」もオープンにしながら、なおかつ、「中立」な雰囲気を持っている精神科医のほうが、より、therapeuticな姿勢のある精神科医になるだろうと私は思います。

(別に、「当事者である精神科医」の方々に、カミングアウトを強制しようという目的で、この記事を書いているわけではありません、念のため(苦笑))

(もちろん、
「当事者性を持つ精神科医」=「よい精神科医」
というわけでもありません、念のため。)

「病的ではない幻覚」について2015年04月19日 12:47

ここ数年で、精神科の医師の仕事をかなり減らしていっている平田だが、精神科医師としての経験もある者として、はっきりと述べておきたい事柄がある(ここ1-2年で、はっきり述べておきたいと、より思うようになっている事柄がある)。

「幻覚」と呼ばれるような現象を、精神医学は、必要以上に(過剰に)、「病的」なものとして取り扱う傾向を持っている。そして、その傾向は、省みられ改善される必要がある。

私自身は、(精神医学的な枠組みの中では)「幻視」と呼ばれ得るような体験をしている人が、「病的」ではないという体験を何度もしている(そのような人々とお会いする体験を何度もしている)。「健康的」に、「幻視」の体験を、自分自身の体験として、自分のものとしている人々がいる。(そのような人々は、精神科医の前に、「患者」として現れることも少ないと思われるが。)

これから、精神科医は、「幻覚」と呼び得るものを体験している人と出会ったときに、その「幻覚」体験が「病的」なものであるのか(=精神科的な「治療」が必要なものであるのか)、それとも「病的」なものではないのか(=その人が、「健康的」に、その体験を、自分自身のものとして取り入れることができるものなのか)を見極めようとする姿勢が、これまで以上に必要とされるだろうと(私は)思う。

「幻覚」と呼ばれるような体験をしている人が受診してきたときに、その訴えを聞いて、安易に、従来の精神医学の枠組みに従って、「精神病圏」「統合失調症(圏)」という分類で捉えることは、これまでよりも、控えたほうがよい。
むろん、「良心的」でスキルのある精神科医なら、「幻覚」体験をしている人が受診してきても、その「幻覚」に、「病的」要素がないことを見て取れ、「不必要」な精神医学的介入を行なうことはしないだろうが。(不必要に、抗精神病薬等を処方することもしないだろうが。)

「幻覚」と呼ばれるような体験は、「幻覚」を体験している当の本人にとっても、未知の体験であることが多く、困惑、当惑、さらには、恐怖を感じることも多い。その、困惑、当惑、恐怖のために、精神科を受診してくることもあり得る。
その際、精神科医達は、そこで表現されている、「困惑」「恐怖」の性質を、きちんをアセスメントする必要がある。
単に「未知の体験だから」という理由だけによって「困惑」「恐怖」を感じているのか、それとも、その「幻覚」自体に自我違和的な性質があるのか(「幻覚」自体が困惑や恐怖をinduceする質のものなのか)という点について、少なくとも、アセスメントする必要がある。
精神科医達は、そのようなアセスメントを行なえる必要がある。
さらに、そのアセスメントを行なった上で、「幻覚」が「病的」なものでない場合には、精神科医達は、本人に、そのことについて、心理教育を行える必要がある。本人自身が、必要以上に、「自分が病気なのではないか」と思い込んでしまわないような、心理教育を行える必要がある。

その意味では、精神科医達にも、ある程度の「スピリチュアル」な知識が必要とされると言ってよいだろう。
(日本でも、ある地域では、このことが、多少なりとも、認識されているだろうか? 沖縄のある地域では、精神科医が、受診者を、ユタに紹介することもあると聞く。)

もちろん、現段階の第三密度のリアリティの中では、「病気」という状態になり、薬によって症状を軽減することを必要とする人達も(まだ)いる。そのような人々には、従来的な、精神科医として適切な対応をすることも必要だろう。(私は、現段階で、「薬物療法」の意義を全否定するつもりもない。)

Collective Consiousness(集合意識)と呼び得るようなものは、(あるレベルにおいて)たしかに存在する。
「集合意識」という概念を持っていない精神科医達でも、ここ20年~30年精神科医の仕事を(ちゃんと)してきた者であれば、受診してくる人達の呈する、「精神疾患」の状態像が(collectiveにみた場合に)、ずいぶんと変化していることには、同意されるだろう。

→「解離性」と呼ばれる状態を呈する人達が、(また)ずいぶんと増えている。
→一時期、あれだけ目にすることの多かった「境界性パーソナリティ障害」と呼ばれる状態を呈する人達とお会いすることが、かなり少なくなったことに、多くの精神科医達が同意されるだろう。
→「自閉症スペクトラム」と呼ばれる状態を呈する人が、明らかに、増大しているだろう。
→「統合失調症の軽症化」も、明らかな現象である。

私は、「集合意識」の変化が、「精神疾患」と呼ばれるものの状態像の変化としても(集合的にみた場合には)、表れてくるのだろうと考えている。多くの人達が呈する「精神現象」の変化として、表れてくるだろうと考えている。

その意味で、ここ最近の変化、そしてこれからの変化として、「病的ではない幻覚」を体験をする人々が、増えていくだろうと、私は思っている。
(「集合意識」が変化しているので、その表れとして、「病的ではない幻覚」と呼び得るものを体験する人々が、増えてくるだろうと思っている。)
(「病的ではない幻覚」は、「精神疾患」の範疇ではないわけだが。)
そして、それは、現在、「スピリチュアル」という名称で呼ばれているような枠組みで、把握することが適切な現象であるだろう、と私は考えている。

「幻覚」と呼ばれるものをどう捉えるかについて、一言述べておきたいと思い記した一文である。
心ある精神科医達には、このことを、心に留めておいていただければ有り難いと思う。

「セカンド・カミングアウト」その22014年08月01日 01:48

前回の記事の続きです。

自分が、いわゆる(世間で言う)「スピリチュアル」と呼ばれているような事柄に、心理カウンセラーとして、興味を持ってきているという話を(前回の記事で)書きました。

前回の記事で、すでに「ついてこれなくなっている」人もいるでしょう。
そういう方々は、今回の記事を(無理して(笑))読まなくてよいと思います。

前回の記事で、まだ「ついてきている」人は、一度、ご自身で「チャネリング channeling」というキーワードで、YouTubeの動画などを検索して、ご覧になってみるとよいと思います。
→そこで、さらに、「ついてこれなくなる」人と、「ついてこれる」人に分かれていくかと思います。
(前回の記事で述べたように、「スピリチュアル」に関する情報は玉石混交です。ヘンな情報にあたっても、そこですぐに止めずに、「しっくりくる情報」がないかどうか(意思が続くかぎりは)さがしてみられるとよいと思います。)

英語のできる人は、英語の情報もみてみることを、ぜひお勧めします。
(日本語の情報は限られています。(が、同時に、ちゃんとした情報もそこそこあるとも言えますが。))

「スピリチュアル」な情報でも、どんな情報がしっくりくるかは、その人その人によって異なると思います。
ので、私から特に「オススメ」の情報を伝えるのは、今のところは、やめておこうかとも思ったのですが、それではあまりにつれないので(笑)、ひとつ(おひとり)だけ挙げておきます。

エックハルト・トールさん
Eckhart Tolle

の語っていることは、言葉づかいはシンプルなのですが、とっても本質的なことを語ってくれていると思います。(ヘンに「スピリチュアル」というものだけに限定されないような、普遍的に大切なことを語ってくれています。)
(敢えて、いわゆる「チャネラー」という扱いにはなっていない人物を選んでみました。)

自分は、7-8年前ぐらい前までは、「チャネリング」などと呼ばれるものは「うさん臭い」とどこかで思っていました。その内実をちゃんと見聞きしたこともないのに、「偏見」をもって捉えていました。

いくつかのきっかけがあって、YouTubeで「チャネリング」の動画をみるようになり、中には、びっくりするぐらい「良質」の内容があることに、心底驚きました。

「チャネリング」をしている人物の知識・能力の範囲内では、どうしたってしゃべることができなさそうな「高度な内容」が、語られている例をいくつも見聞きしました。

「チャネリング」によってメッセージを伝えてくる「存在」には(いわゆる「亡くなった人」だけではなく)、様々な「存在」があり得るらしいということも知るようになりました。
(同時に、「ちゃんとした」チャネリングにおいては、通常、「私がどんな存在であるかは重要ではなく、私の伝えるメッセージが、貴方にとって、意味があると感じられるかどうかが大切なことだ」というような趣旨のメッセージも伝えられる、ということも知りました。)

心理カウンセラーである自分にとって、非常に勉強になる「チャネリング」のメッセージもあります。

例えば、ある「チャネリング」では、質問者が、自分のみた夢の内容について、(「チャネリング」でメッセージを伝えてくる)「存在」に対してたずねた際、、ユング心理学の熟練の分析家もびっくりするぐらい、見事な「夢分析」を、その「存在」が返してきていました。(その「存在」は、何度か、そのような「見事な夢分析」を披露してくれています。)
(深い「夢分析」は、一朝一夕で真似して出来るようになる代物ではないので、しゃべっている「存在」が何者であれ、「タダ者ではない」ことがわかります。)

また、その存在は(英語圏の「チャネラー」がチャネリングしている存在なのですが)、"story"の重要性についてしばしば語ってくれます。(ここで言われている"story"は、日本語に直すならば「物語」や「おはなし」という日本語に相当することが(その「存在」の語りをきいていると)わかります。)
そのメッセージをきいていると、それは、日本の臨床心理学者の河合隼雄さんが「物語」という表現で語っていたことを、さらに進化(深化)させた内容であることに気づかされます。そのことに気づき、非常に驚かされたとともに、(ユング心理学への指向を持つ私にとって)とても深い学びになりました。

上述したように、「チャネリング」をしている人物のバックグランド・知識では知り得ないような「高度で」「深い」内容のメッセージが、「チャネリング」のメッセージでは語られることがしばしばあります。
上述の「チャネリング」をしている(英語圏の)「チャネラー」さんも、河合隼雄さんの「物語論」を知っているはずがないと思います(河合隼雄さんの「物語論」の本質を捉えている語りでした)。

そのような体験をしてきたため(なにも知らずに、「チャネリング」というものに偏見を持っていた数年前の自分とは異なり)、今の自分は、「チャネリング」というものは、ふつうにあり得るものなのだ、という認識を持つに至っています。

そのことはすなわち、これまでの人間の「通常の」知覚では知覚され得なかった、物理的肉体を伴わないような「知的な存在」(目には見えない「知的な存在」)があり得るのだということを認める、ということにもつながってしまいます。
(このことについてはまた機会をあらためて、詳しく述べる必要があるかもしれませんね。)

「偏見」が強くない人は、ここまで私が書いてきたことを、もしかしたら、追体験されて、これまでのご自身の世界観ではあり得なかった、びっくりするような新たな認識を得られるかもしれません。(私自身は、びっくりするような新たな認識を得たという感じがあります。)
(別に、「ヘンな道」に、無理やり勧誘しようとしているわけではありません(笑)。)

次回、どのような内容を書こうかなとちょっと迷いますが・・・・
→実際に、私にとって学びになっている「チャネリング」の具体的なメッセージの内容について、そのうちに、書いてみようかとも思っています。

関心の変化2014年07月29日 01:01

心理臨床に関することを書こうと思い、始めたこのブログなのですが、ここしばらく更新せずにおりました。
今回、書いてみようと思う事柄がありまして、ひさしぶりに記事をアップするべく、キーボードを叩いています。

自分は、自身がゲイの当事者であることもあり、20代の頃から二十数年間、心理臨床の中でも、セクシュアル・マイノリティへの心理支援に主に興味をもって関わってきました。
また、自分は、「夢」をもともとよくみるほうなので、心理臨床の中でも、夢分析というアプローチを主な手法とする「ユング心理学」に親和性を持って、学んできました。

「セクシュアル・マイノリティ」に関しては、自分は、いわゆる「二重生活」を送るのは自分の性に合わないので、2008年にNHK教育の「ハートをつなごう」という番組へ出演するときに、ゲイであることを隠さずにカミングアウトすることにしてから、基本、ゲイであることを隠さずに(かといって宣伝するわけでもないですが)、心理カウンセラーとしての仕事もするようにしています。

ゲイであることについてはけっこうカミングアウトするようになっている自分なのですが、ここ1~2年の間、別の事柄について「セカンド・カミングアウト」をしようかどうしようかと考えてきています。
「ある部分を隠して二重生活をする」羽目になるのは(ゲイであることを隠すのをやめた自分なので)好きではないので(笑)、今回もカミングアウトをしようと思います。
今回、このブログに記事をひさしぶりに書いている理由は、その、セカンド・カミングアウトをしようと思っているためです。

 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

 これから書くことは、世間一般的には、「ああ、あいつもとうとうイカれてしまったか」とか、「ヤバくなってる」「あぶなくなってる」とか、さらには、「発病してしまったか」などと言われ得るような内容だと思います。

 どんな事柄を書こうとしているかの一端(さわりの部分)を、先に書いてしまおうと思います。

 上に書いたように、自分は、眠っているときに夢をよくみるほうです。
 若い頃から、ものすごくリアルな(ヴィヴィッドで、起きたあとも強烈な体感が残っているような)夢をみることが時々あります。なので、同じように、強烈な夢をみた体験を書き残しているユングの自伝を(自分が20歳のときに)読んでから、自分は、ユング心理学に強く惹かれていきました。
 自分自身が、ユング心理学の分析家に「夢分析」をしてもらったり、自分自身、クライエントさんにみた夢を報告してもらって、それを心理臨床に活用したりしてきました。

 自分が夢をみていて(あるいは、クライエントさんからみた夢の報告をきいていても)、時々、その夢の内容は、夢をみた本人(個人)を超えたところから来ている、と思えてしまうことがあります。
 例えば、自分は、若いころ、本当に死ぬほど悩んでいたことがあったのですが、そのときに、
「自分の身体が二つに引き裂かれて(そのあとまたくっついて)新たに生まれ変わる」
という(実際に、引き裂かれる体感を伴った、「衝撃的」とも言える)夢をみたことがあります(それは、ユング心理学を知る前の話です)。

 自分は、そういう、すごく「強烈」な夢をみることが時々あります。
 昔の人々は、そういう(強烈な)夢をみたときに、「神からの啓示をうけた」みたいに、言っていたのだろうな、と思います。(アブナイかんじがするセリフでしょうか?(笑))。

 ユング心理学では自明のことなのですが(しかし、すでにここの時点で、世間的には「ちょっとイカれている」領域に入り込んでしまうと思いますが)、実際、ユング心理学では、夢は、その本人(個人)を超えた「集合的 collective」(人類全体の集合的無意識)なところから、やって来ることもある、ということが言われます。

 夢分析をやっていると、「偶然の一致 シンクロニシティ」と言われるようなことも時々、経験します。
 (このあたりから、徐々に「セカンド・カミングアウト」に入っていきます(笑))。
 例えば、夢の中で、「約束の時間に遅刻する!」と思って時計をみて目が覚めると、起きたときの時刻が、夢の中でみた時刻と同じ時刻だった、ということがありました(実際、その時刻に目覚めたおかげで、遅刻せずに済んだのですが)。
 また、自分は何度か、自分の知っている人が亡くなったときに、その人が出てくる夢をみるという体験をしています。
 亡くなった知り合いが、とてリアルに話しかけてくるという夢をみたりもします。

 ユング心理学では、夢も、ひとつの「リアリティ」だという捉え方をします。(「心的現実」という言葉を使います。)

 一度、亡くなった自分の友人が「夢」の中に出てきて、「今、自分は幸せに生活している」という話を語ってくれたことがあります。とてもリアルな夢でした。自分は彼がそう語ってくれたことを、とても嬉しく感じて、(夢をみている最中もですが)起きたあとも、涙を流していました。とてもリアルな「心的現実」でした。自分の心(感情)に、とても深く深くはたらきかけられた夢でした。自分の感じた感情はリアルだったわけです。

 さて、ここで、ひとつ「カミングアウト」します。

 自分は、自分の夢の体験から、人間は、いわゆる「死」を迎えたあとも、その存在は「無」になるのではなく、なんらかの形で、存在し続けるのだと思うようになっています。(それが、自分の実感になっていっています。)
(夢でみる内容は、単に「自分の頭のなかでつくりあげた」以上のものである場合もある、と思うようになっています。)

 自分は、いわゆる「霊媒」ができるわけではないので、自由に「亡くなった人の魂?(霊?)」と話ができるわけでは勿論ないですが、しかし、自分が夢の中でときどきやりとりすることのある「亡くなった人」は、単に、自分が頭の中でつくりあげたもの(主観)ではなく、なんらかの「客観性」も持つものだろうと思うようになっています。

 さて、ここで、これを読んでいる方々に思い至っていただければと思うのですが、
 皆さんの持っているものの見方は、「中立」でしょうか? 
 それとも、なんらかの「先入観」に彩られているでしょうか?

→ある人が死んだら、その人の存在は「無」になる、という考え方は科学的に証明されている事柄でしょうか?

→逆に、ある人が死んだあとに、その人の存在が、なんらかのかたちで存在し続けるということは、「あり得ないこと」として、科学的にきっちりと「否定」されていることでしょうか?(あり得ないということが、ちゃんと科学的に証明されていることでしょうか?)

 皆さんのものの見方は、いわゆる「唯物論」と言われるような一つの特定の見方だけに、染まりすぎてはいないでしょうか?

 人間が死んだら「無」になるという考え方と、
 人間が死んだあとも、その存在はなんらかの形で存在し続けるという考え方の、
 どちらをも、五分五分にあり得ることだと(or 五分五分にあり得ないことだと)、見ていく見方が、本当に、「中立的な見方」ではないでしょうか?

現代の先進諸国の人々のものの見方が、「唯物論」という特定の見方に偏り過ぎていると、私は思っています。

「物質」と「それ以外」を分けて考える考え方は、近代以降の「西洋」(と言われるような世界)において生まれてきた「特定の考え方」で、現代の先進諸国という世界において、「主流」になっている考え方ではありますが、それだけが「唯一」の考え方ではないし、さらには、それが「いちばん進歩した考え方」でもない、
→と考えるのが、「中立的な考え方」だと私は思います。

というわけで、私は、いわゆる世間で「スピリチュアル」と呼ばれているものが(たしかに、「胡散臭い」ものも多々含まれてはいるのですが、それにしても)、偏見の目で見られすぎだと思うようになっています。
中には、「ちゃんとしたもの」もあると思うようになっています。

「霊媒」という現象も、(これまた、胡散臭いものも多々あり過ぎるほどありますが)、ちゃんとみていくと、中には、「これは、本物では??」と思えるものも含まれている、と思うようになっています。

そういう目で、いわゆる「スピリチュアル」という分野をみていくと、単に「これは、全部キワモノだ」と切り捨ててしまえない事柄が、少なからず含まれていると、自分は思うようになりました。

自分が、そういう方向に動いていっている理由は(そういう事柄に、より関心を抱くようになっている理由は)、単に自分の好奇心からではなく(好奇心もあることはありますが)、「スピリチュアル」と呼ばれているような事柄をちゃんとみていくと、その中には、明らかに自分がふだん行なっている臨床の仕事にとって、有用なものも多々多々含まれていると実感するようになったからです。

おそらく、(自分が「夢」というチャンネルで、そういうものに対する感性を持っているように)、生まれつき、そういう事柄に感性のある人々が何割か、人類の中に生まれてくるのだろうと思います(そういう人々の中で、いわゆる「霊媒師」と呼ばれるようなものになる人もいるのだろうと思います)。


次回は、「スピリチュアル」と呼ばれるものの中の、もうちょっと別の事柄について、書こうかと思います。

とりあえず、今回は、このへんで。


このようなことを書くと、
「あいつはおかしなことを考えるようになった」
「ヘンになっていっている」
と思う人がいても、(現代の「常識」からすると)それもまあ仕方がないことだろうなと思います(笑)。

伝わる人に伝わればいいと思って、今回の記事を書くことにしている次第です。